明治維新を経て、日本が必死になって欧米を追いかけはじめた明治10年代。20歳を少し超えた日本の青年が中国・上海に遊学し、そこで見た欧米人と日本人との体格の差をハダで感じたことから物語ははじまります。
その青年は、長野県佐久郡の豪農の息子で、福沢諭吉のもとで勉学に励んでいた神津邦太郎。邦太郎は、日本人の身体が貧弱なのは、それまで肉や乳製品をほとんど食べてこなかったからで、明治政府が叫ぶ「富国強兵・殖産興業」を実現するためにも、まずは日本人の食生活から改めていかなければいけない、と上海の地で決意したのでした。
そこで邦太郎は、牛乳からバターをつくることを思い立ち、早速行動を起こしました。こうして明治20(1887)年、群馬県甘楽郡の現在の地に牛舎を設置して開設した洋式牧場が、我が国では最古となる神津牧場だったというわけです。
とはいえ選んだ土地は、群馬県と長野県との境に位置する物見山(標高1,375メートル)の山頂から東側になだらかに広がる傾斜地でした。邦太郎は、この傾斜地に牧草を植えて草地にし、そこに牛を放牧して自然に近い形で飼養していこうと考えていました。つまり、何でも自前でやってしまえる自給自足型の畜産を最初からめざしていたのです。
そのためには、小型で環境への適応力があって運動能力にも優れたジャージー種の牛が最適ということになり、アメリカ、カナダから選りすぐりの45頭を輸入して、本格的な牧場経営がスタートしました。
写真:45頭のジャージー牛導入を決定するまで、さまざまな牛を試験的に導入し、研究を重ねました